今年の日本は、二つの相反する法律が成立、施行される。個人情報の管理を強化し、プライバシー保護をより強化しようとするものと、個人のプライバシーを監視できる様にしようとするものだ。夫々改定、改正となっている。政府は夫々国会審議などでは再三「強化」ではないというニュアンスで質問や批判をかわすが、中途半端にごまかし言葉は使わない方が良い。「強化」なのだ。
1999年に導入された組織犯罪防止法、2003年に導入施行された個人情報保護法、時代とともに環境が変わったことは事実だろう、実態に合わせて改定、改正すること自体は批難しない。が、そもそも、制度や規則というものは、一度導入されると、その結果の不備を補うためとして、あるいはさらに良いものを求めるという名目で強化されていくものであることを忘れてはならない。それは決して不自然なことではなく。自然の流れだ。たまに緩和される場合もあるが、圧倒的に事例は少ない。
今から(最初の立法時に考慮すべきことなのだが)行く末に想像力を豊かに持っておくことが必要だ。
おそらく、それ程時をおかずに、とんでもないプライバシーの侵害と、異常なほどのプライバシー保護が混在する社会が来る。今回の二法の改定、改正はその引き金を引いた。そして必ず、その法律を拡大解釈、過剰行使する状態があらわれる。
社会の一員であること、それはみんなで作った社会資産、社会資本を活用して利益を得ることである。そうである限り、自分は「何者であるのか」がある程度公知となることに、多少の不便、不快は我慢して応じる義務がある。もちろんそれを悪意で利用するものは罰せられるべきであるが、「何者であるか」をすべてから隠すことで解決しようとするのは本末転倒だ。ところが、存在自体が知られることも問題視されるのだ。住みながら存在を消すという異常なほどのプライバシー保護が進んでいる。
一方、思想や考えが犯罪と結びついていることは否定しないが、思いそのものが犯罪になるというのは戦中そのもの。個人のプライバシーは頭の中まで許さない。あたかも「現代はテロとの戦いの真っただ中、つまり戦中なのだ」と立法者が言っているように聞こえる。とんでもないプライバシー侵害が、IT技術の進歩と監視インフラの充実により容易に日常的に行われることになる。
個人情報保護法では、これまでの制限を撤廃して、小規模事業者にもすべからく個人情報保護を義務付ける。しかも、努力目標ではなく、罰則付きだ。国税など他の制度では様々な例外事項で守られている宗教団体も対象となるという。
先日、神社へお参りに行った。たくさんぶら下がっている絵馬、何気無く読むと、なんと、私の住むマンションの住人が奉納したものだ。住所で判明したのだが、夫婦の名前、及びその方のお願いまでもがわかってしまう。神社とは、疑いを持たない、なんと開放的な日本の文化そのものであろうか。しかし厳密に言えばこの絵馬の風習や、住所、名前、願いを皆の前で読み上げる御祈祷は今後どうなってしまうのであろうか。
グローバル化により個人情報の域外移転が問題となる。APECのルールやEUのCBPRとの連携などが進むと国際共通ルールの下に日本の個人情報保護法が置かれることになった場合、古来からの日本の風習文化は維持されるのであろうか。古来日本の文化は、ある程度個人情報を公表しコミュニティで共有することで形作られてきたものだ。
組織犯罪防止法では2002年公開されたトムクルーズ主演の「マイノリティ・リポート」を思い出す。人の頭に入り込み、その人間の将来の犯罪を予測し、可能性が高い人間は事前に拘束してしまうという内容だが、IT技術の発達、監視インフラの充実に支えられた、思いが犯罪になる社会。改正組織犯罪防止法の施行後に予測される世界そのものが15年前に観られたのだ。
全く正反対の二法が強化されたことがわかるだろう。
私たちはこの極端な矛盾の中の社会制度で生きなければならない。制度、規則は導入されれば進む道は「強化」される。制度、規則は拡大解釈、過剰行使されるもの。という本質を踏まえ、想像力を豊かにすることが生きる上での助けのひとつだ。
2017.6