年金問題が再び騒がしい。金融庁、厚労省の報告書が発表されてからにわかにだ。
65歳の人間が生涯暮らすには、年金収入以外に2000万円が不足する。いや3000万円が不足する。そんなに必要ない。歳をとるとあまり動かなくなるからそんなに必要ない。いや、医療費などが増加するからやはり不足する。無年金の人も、年金が少ない人もいるからいちがいにはいえない。などなど、どうであってもそれぞれの根拠を持っているし、少子高齢化、人口減少時代に、人口増若年僧比率の高い時代の制度がそのままで大丈夫とは誰も思っていない。
その金額の正確さや高をことさらに問題にすることは、あまり意味がない。本質的な問題では無い。
要するに「これからどうするかみんなで考えましょう。」と言うことであり、これまでも言われたことにすぎない。
むしろ、このような当たり前の結論のために、高頭脳のみなさんがたくさん集まって時間を割いたのが、勿体ないくらいだ。
だから、報告書を読んでもおかしさは感じない。
私が懸念する問題点は別のところにある。
それは、公文書に対する姿勢だ。
森加計問題では官僚が忖度したとして公文書を、改竄、隠蔽、破棄したと言われた。
明らかになっている者以外に指示したものがいるのか? いるとしたら誰か?
本当のところはよくわからないが、あくまでも官僚の公文書に対する不心得の問題だ。となっている。
しかし、今回はかなり次元が違う。
現役の担当大臣が、与党の大幹部が、国対委員長が、公文書を「受け取らない。」「選挙に影響ないようにしてくれ。」「無いものにする。」と公言したことだ。
こんな事を平然と公言した政治家はかつてもいたのであろうか?
文脈の解釈で色々な無理や理不尽なことを言った政治家はあろうが、とりわけ「無いものとする。」発言は常軌を逸している。
これにまずびっくりしたのだが、さらに驚いたのは、これらの発言に対する与野党、マスコミ、国民の反応のなんと鈍いことか。
野党の言う「大臣の発言が混乱を招いたと思いませんか?」という質問材料レベルの話ではない。
公文書は、国家の歴史の記録である。
明治以前には時の権力者に都合のいいように改竄、隠匿、破棄された文書は多々あったであろうが、それでも歴史学者は残っている文書を研究して歴史の検証をする。
近年になって欧米の国家体制を学び、民主主義の支えとして、国民がいつでも歴史を検証出来るよう国立公文書館がある。
公文書の扱いは網羅的であり、あるがままでなければならない。でなければ正しい検証に使えないからだ。
したがって、実際にあったものを無かったものにするという考えそのものが、公文書に関してはあり得ない話だ。
このような発言があると、「もしかして、我々の知らないところで無かったものにされた公文書が他にもあるのではないか」という勘ぐりまで呼ぶ。
我々大人は、子供の道徳教育で「都合の悪いものは無かったことにするのが正解。」と教えるつもりなのか。
機密情報保護法の成立では、同盟国から重要な情報が得られなくなる恐れを根拠としたが、公文書の管理、いや今回は公文書を管理する能力と姿勢が、事務方だけではなく、国家全体に及んでいることが明らかとなったこのような国家に誰が信用を寄せるだろうか。
どうして日本がこんな国になってしまったのか?
野党の不甲斐なさ、与党の連勝のおごり、国民の不感症、マスコミの論点ズレ、などなど様々な原因が積もり積もった結果なのだろう。
年金問題と同様、誰がどうと言う問題ではなく超党派で取り組みべき民主主義を守るための課題ではないだろうか。
私も反省している。
どこかに「どうせ」という感覚が心に宿っている。
こんな国になってしまった責任の1億分の一は私だ!
2019.06