JR北海道函館本線 有名な長万部駅から二駅函館寄りに「国縫駅」がある。
今は駅前もすっかり寂れ乗降客も一日平均10人以下となっている。
この国縫駅もかつては重要な交通要所として重用された分岐駅であった。
昭和7年の瀬棚線全通から昭和62年の瀬棚線廃線までの半世紀、太平洋(噴火湾)と日本海を結ぶ拠点として存在感を示し、急行列車の停車駅でもあった。
いつも、国道5号線、静狩峠を下ってから長万部を通って八雲町までほぼ一直線の北海道らしい道路を飛ばすのだが、今回は私の郷愁の念が、国道5号線 国縫駅入り口の交差点を右へ折れ国縫駅へと足を運ばせたようだ。
国縫駅の歴史は古い。1903年(明治36年)開業というから、1902年(明治35年)私鉄の北海道鉄道が発足して翌年、まだ国鉄になる前の話だ。因みに、北海道最初の鉄道は北海道開拓や後に炭鉱開発に貢献した官営幌内鉄道で1880年(明治13年)発足である。
当時(明治)は道内では安田財閥が各地で鉄道事業を手掛け、未来=鉄道と思われていた時代であった。
私の生家は瀬棚線の終着駅の一つ前北桧山駅からバスで30~40分程の若松地区、会津若松の出身者が日本海に注ぐ太櫓川に沿って開拓に入った場所だ。追分ソーランラインと呼ばれる渡島半島の日本海側を走る国道229号線が一旦内陸へ入ったあたり、そこで、15歳(中学3年)まで過ごしたが、当時、函館本線まで出るということはめったにないことであった。
それだけに、かつてオヤジと一緒に札幌へ行くために国縫駅前の簡易宿泊所で仮眠しながら函館本線ニセコ越えの重連蒸気機関車をまった記憶が強い。
国縫駅なのか、長万部駅だったか、転車台も見たような記憶がある。
当時の国縫駅は私が小さかったこともあろうが、もっと大きく奥行きがあって、石炭の匂いとジーゼルの排気ガスが充満していた。そして記憶が定かではないが駅の立ち食いソバの匂いも漂っていたような気がする。
「くんぬ〜い くんぬ〜い♫」駅到着時の場内アナウンスはまるで歌うように聞こえたものだ。
今はひと気のない待合室、時刻表は一日上下各6本。丁度通学に合わせたような時刻表。利用客の大半は学生か通院客だろう。いまさらながら、車文化に変わったのだと感じる。
運賃表も、長万部と函館までしか掲示されていない。これが利用者の主たる活動圏か。
国縫駅は、1992年(平成4年)完全に無人駅になった。改札口は自由に通ることが出来る。
ホームに出てみると何とも静か。駅とはこんなに音のないものであったろうか。
向かいホームへ行ってみる。昔昇った階段をギシギシ踏みしめながら渡り通路へ出ると、迎えてくれたのは、通路のガラス越しに飛んでいる蛾。羽音まで聞こえそうな静けさだ。
しばらく浸っていると、運よく貨物列車が通過した。「ピー!」国縫駅に到着しては初めて聞いた、「生きた」音だが、あたかも駅の存在にも私にも気付いていないかのように、スピードを緩めずあっという間に通り行く。牽引する機関車は「DF200-58」・・・・(だからといって鉄ちゃんではないので意味は分からない。)
貨物列車が通った後は再び蛾の羽音でも聞こえそうな程の静けさに戻る。
もう一度待合室に戻ると昔懐かしいチッキにつけていたような荷札を見つけた。旅の思い出にとの旅行者への心憎いプレゼントだった。とたんに、函館中部高校入学の思い出、明治大学入学のための上京時の上野駅と赤帽の姿が脳裏に浮かぶ。
国縫駅に思いの強い旅客と地元の人の思いをつなぐ赤い荷札、ありがたくいただいた。
駅を出た正面に2件の二階家が並んでいる、何かを営んでいる様子はない。60年近く前になるので記憶違いかもしれないが、どちらかがオヤジと泊って列車をまった宿泊所であったと思う。
JR北海道は苦戦だ。将来の鉄道事業に関しては、北海道新幹線以外に前向きな話は聞こえてこない。まさか函館本線が消えるということは無いであろうが、駅周辺国縫地区の人口推移によっては国縫駅が駅舎跡として存在することになる可能性は否定できない。
今回ある程度まとまった形で記録を出来たことはありがたい。
*「国縫」とはアイヌ語の「クンヌ=黒い」から来ているということだ。確かに長万部~黒岩にかけての噴火湾海岸線は黒い砂浜が続く。黒の原因は砂鉄。U字磁石を引っ張って歩きたくなる海岸だ。(この考えも古いなあ)