昭和29年生まれの私に戦争経験はない。終戦後9年しか経てない年生まれながら、日常戦争を感じることは無かった。
しかし、父母は大正12年生まれ。多感な時期、貴重な青春を戦争に奪われたであろう両親から断片的に戦争に関する話は聞いた。その話に特別悲惨な話や辛い話は感じなかった。あえて子供には伝えず。じっと耐えて飲み込んでいたのかもしれない。
聞いたことを記録しておこうと思う。
我が家には、昭和35年東京オリンピックが開催された頃でもなお、軍隊毛布、カーキ色アルマイトの水筒、ゲートル等、一郎(父)が戦争から持ち帰った装具があった。
軍隊毛布は一部かぎ裂きが縫ってあった。子どもにとってはとても大きく、硬く、重い毛布でよく掛けて寝たが暖かいという感覚は無く、重い硬い痛いという思い出が強い。兵隊さんは常にこれを担いで行軍したのだろうか。あるいは兵舎で睡眠に使ったのだろうか。
アルマイトの水筒は日常的に使ったことはないが結構容量は多かった。グリーンのベルトがついていて格好良い。
ゲートルは何組かあった。長靴の上からふくらはぎまで巻くと雪も入らず歩きやすく優れモノだ。ズボンのすそが草や木に絡むことも防げるので格好はともかく重宝した。雪球もあまり着かない。
母きくえが戦争時より持ってきたものは特に意識しなかったが、炭を入れるアイロン等はその時代のものだったか。
もう一つ特に印象に残っているのは、注射器だ。
一郎は当時日本領であった南樺太大泊に生まれ、商業学校を卒業して北海道に渡り旭川あたりで入隊したという事だ。因みに祖父の呂久郎は新潟巻の生まれ、鉱山測量士として南樺太に渡り、後に白糠の尺別炭鉱など道内、樺太内を渡り歩き最後は真岡(ホルムスク)で没している。
一郎はどういう経緯があったのか知らないが入隊後「衛生兵」となったらしい。
衛生兵とは一般的にどうであったかは知らないが、一郎は各地の部隊兵舎の衛生状況をチェックして歩いたらしい。部隊長などにとっては衛生状態を良好に保つことは大変重要な任務であったらしく、不備を本営に報告されると厳しく叱責、時には処分されることもあったようだ。
為に一郎は若造の衛生兵であったにもかかわらず、訪れた部隊ではチヤホヤされたようで楽しい思い出のように語っていた。
衛生兵であったのだから勿論注射の知識はあり実際の施術も行っていたと思う。
私が生まれた時には一郎は郵便局に勤め「配達さん」をやっていた。(正式には郵政省外務職員というらしい。)
母きくえは近くの営林署の苗圃や農家の田植えや稲刈り、おまけにヨイトマケの出面仕事までやっていた。
さらに当時自宅では近隣どこでもそうだが自家農場を持っていて、ジャガイモ、人参、トウモロコシ、トマト、ナス、胡瓜、かぼちゃ、ササギ、小豆、、、、、だいたいのものは自家栽培で自給していた。
加えて、一時「真柄軍手製作所」という名前で夜一郎と共に軍手を作り、町の商店へ卸していた。
加えて育児に家事だ。これだけ働けば疲労はたまる。
一郎は頻繁にストーブの上にアルマイトの弁当箱のようなものに熱湯を沸かし注射針と注射器を煮沸消毒、アンプルの首をハート型のヤスリで傷つけ手折り、なんだかの溶剤を充填して、きくえに打っていた。時には腕に、時には尻に。
今考えれば完全に腕が後ろに回る違法行為ではないか。
ところが当時はまだこのようなことが許された(実際は隠れた違法行為だったとは思うが)のだろう。この事実は戦後貧しかった時代が戦争の延長として映っていた記憶だ。
きくえの母は田中ヨキといって94歳で死んだ。ヨキの息子(きくえの兄、私の叔父)は靖国神社にいる。仏壇にあった叔父の軍服姿、良い男であった。血筋だ。
ヨキは我々には戦争の記憶、先だった息子の話をしたことは無い。戦争の記憶、ぶつけようのない口惜しさ悲しみをじっと心の中にしまい込んで生きていた人は多かったのではないか。もっとも軍人恩給のようなものを遺族として受け取っていたようで、我々にはその中から小遣い古い大きな50円玉を判で押したようにくれた。10円札をくれたこともあったが既に使えなかった。
きくえ自身は若くして上京、東京武蔵野吉祥寺の軍需工場で空襲にあったと聞いた。瓦礫に首まで埋まったと言っていた。
衛生兵だった一郎は大陸の満州へ行ったことがあるらしい。とても寒い所だという事を得意の風呂敷、内容を大盛にして話していた。しかし、思い出すように歌う歌は「トラジ」、起床ラッパの真似「起きろよ起きろ 皆起きろ 起きないと隊長さんに叱られる🎵」で我々を起こしたものだ。
一郎が死んで21年、きくえが死んで16年経った。いずれも、私の人生の中で最も多忙であった時期に無くなっている。北海道の田舎町に住んでいた両親、東京で働いていた私、従って話すのも年に数度くらい。親不孝を重ねている最中に無くなった。
現役を引退した今であれば、終戦の瞬間何を感じていたのか等聞いてみたいことがいっぱい浮かんでくるがそれもないままに別離となった。二人とも、彼らの戦争を詳細に伝えることなく、ヨキのように口惜しさ悲しみを心にしまい込んで逝ってしまった。
話したくないことを掘り起こしてまで無理に話させる必要は無いと思うが、聞いておけば良かったとつくづく思う。
なにせ、彼らの生きて来た唯一の証は子供を残したことであり、子供に血と何かが伝わることだからだ。
過ぎ去りし時は帰らない。
2022.01